石平はるひこ
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2012,08,29, Wednesday
学会の前にヒロシマ非核平和の旅で深く考えました。
「自治体」大会とのそもそもの関わりと思い
すでにお知らせしたとおり、8月30日、31日の2日間にわたり、広島市の平和記念公園の中にある広島国際会議場を主会場として、「第28回 全国自治体政策研究交流会議・広島大会」と「第26回 自治体学会・広島大会」が開催されました。以下、その模様を報告します。
この両大会は、コンビを組んで例年8月に全国の県庁所在地を中心に、開催地の都道府県や市長会、町村会などで構成される実行委員会と自治体学会がそれぞれ主催して持ち回りで開催されています。実は、前者の自治体をめぐる職員や研究者の全国的な交流の取組が先行して、その交流の中から自治体学会が誕生したという経緯(いきさつ)があり、以来この形で開催されてきました。
私は、この自治体学会の発足時から会員として活動しています。ちょうど最初の選挙に敗れ、捲土重来を期して頑張っていた頃でしたから、自治体学会発足の報に接して、政策的な勉強や実践交流のために勇んで入会したことを覚えています。ですから、議員歴よりも自治体学会の活動歴の方が長いのです。大会参加数も7割ぐらいになります。
おかげで、上越市における制度政策展開では、その節々でおおいに貢献することができ、結果として全国に誇れるような数々の取組を重ねることができました。そして私自身は、最近になって研究論文(著書)が自治体学会賞を受賞するという予期せぬ栄誉にも浴しました。
私が、特定の政党政派に偏らず、政局に流されず、ひたすら政策本位で活動している(できている)のは、少年期からの人権擁護の地道な市民活動に加えて、上記のような全国的な実践交流や研究活動の支えがあったからなのです。逆にいえば、政治家らしくない、行政職か研究者のようだ、という評価もあります。善し悪しは別にして。
ですが、私自身は、両方の良い面を取り込んで頑張っているつもりです。
ひたすら市民の幸せのために、弱い立場の人を守るために、時に孤高を保っても、政策本位、公平無私、長いものに巻かれず、強いものにおもねず、「言うべきことは言い、やるべきことはやる」の有言実行で取り組んできました。
政治の世界では、例外を除き、裏切ることが常の世相ですが、私は裏切られることは甘んじて受けますが、私の方から裏切ることはしません。
第一に信義を重んじ誠実に行動します。必要なことは深く掘り下げ、とことん追求します。そのような姿勢(潔癖さ、一途さ)が、時に政治の世界で敬遠されますが、逆に市民の皆さんの信頼を得て、7期という長い間、務めさせていただくことができているのだと思います。
とりとめもないことを書いてしまいました。
さて、今回私は、自治体学会・広島大会のパネリストとして出演するためにヒロシマにやってきました。
朝早く上越を立ち、北陸線を通って午後3時過ぎに広島駅に着きました。ヒロシマの夏も暑い。汗を拭きふき、ひとまず駅から路面電車で30分ほどの会場近くのホテルにチェックインしました。
それにしても、広島は遠い。交通の便の悪いことが、今更ながら思い知らされました。2年後に金沢まで新幹線が開通すれば、かなり短縮するでしょうが、今は脇野田駅から広島駅まで7時間半です。ということで、行き帰り1日ずつ取って3泊4日の出張です。9月議会前の長期出張は、正直つらいところがありますが、大げさにいえば、日本の地方自治の進展のためには、やむをえません。
今回は自腹で、政務調査費の問題を問う
ついでに言えば、今回は自腹です。交通費、宿泊費など、インターネットで最低限のものを探しても、6万円ほどかかります(なお、今回はパネリストなので、学会の参加費(会員3,000円、非会員6,000円)は無料になりました)。議員には政務調査費が支給されますが、年30万円(月ではありません)で、私の活動状況では、ここから賄う余裕はありません。
会派の一員だった時は、このような研究大会に出席して研鑽を積むのに会派に支給の政務調査費を使ったこともありましたが、3年ほど前に1人では会派と認めないということで、同時に政務調査費も支給されなくなってしまったからです。
その結果、会派に属するか否かで、議員としての活動に、実質、2倍の調査費の違いが出るという不合理(不公平、差別)が生じています。(名目は会派であっても、実質は会派で視察等をする時の個々の議員分の経費に使われるのが常です。)
私は、現在、1人だから問題にしているのではなく、議論が浮上した当時、会派に属していましたが、こういうやり方には反対し、会派としても反対しました。しかし多数で押し切られてしまいました。
議員の身分(調査活動)に関わる不公平さや、こういう強引な決め方は、これまでには少なくとも私の記憶にありません。全会一致で決めるのが上越市議会の良き伝統でしたし、私の議長の時も全会一致を旨とし細心の注意を払って合意形成を心掛けたものでした。
市民の皆さん、あるいは他の自治体の皆さんは、均しく市民の信託を受けた議員に対する、こういう不公平な扱いをどう考えますか。
「品格の都市」、「議会改革先進都市」として全国に売っている立場としては、市議会のこの点だけは(経過も含め)いただけない、恥ずかしいこと、と思っています。
また、話がそれてしまいました。
祈りを込めて平和記念公園を見学
まだ早いので、というか、既定の方針だったのですが、平和記念公園を見学し、原爆死没者への祈りを捧げようと、出かけることにしました。
私は、広島平和記念公園を訪れるのは今回で3回目になります。しかし、これまでは、時間の都合で原爆死没者慰霊碑と平和記念資料館を駆け足で回る状態でした。
今回は夕暮れまでに3時間というまとまった時間がありますので、いろいろ思いをめぐらせながら落ち着いて回ることができました。
中央の渡り廊下をはさんで左右が広島平和記念資料館。左奥に渡り廊下をはさんで広島国際会議場が見える。
まず、「平和記念資料館」の渡り廊下の下を抜けて、「原爆死没者慰霊碑」の前に進み、死没者の御霊に心からのご冥福と非核平和への誓いの祈りを捧げました。
私の前後に、若いカップルや外国人の団体さんがお祈りしたり記念撮影などをしたりしていました。
その後、さらに「原爆ドーム」の方向へと進みました。途中、「原爆の子の像」の前では、若い女性がじっと像を見つめていました。祈りを捧げていたのでしょうか。
私は、祈りを込めてモニュメントの中の折り鶴の鐘を鳴らしました。 像のそばに整備された折り鶴台には、たくさんの折り鶴が捧げられていました。
さらに進み、「平和の鐘」のところで、平和への思いを強く込めながらも、そーっと鐘をつきました。「力いっぱい鐘をつかないでください」との注意書きがあったからです。それでも、「ごーーーん」と辺りに響き渡り、余韻がずーっと続きました。
「原爆ドーム」は、原爆死没者慰霊碑の辺りから遠くに眺めたことはありましたし、平和記念資料館やパンフレットなどで写真は何度も見たことがあったのですが、川(元安川)の対岸(平和記念公園側)から実物を目のあたりにした時は、大変な衝撃を受けました。その無残な姿は、多くの言葉や写真よりも、比較にならない程の無言の威力で迫ってきます。川沿いにあった銘板のそばのベンチに座ってしばらく思索にふけりました。そして、その姿を目に焼き付けましたが、それでは足りず、「写真家」(写真撮影が趣味というだけのことですが)の私としては、何度もシャッターを切りました。
その後、ぐるっと回って橋(相生橋)を渡り、原爆ドームのすぐそばまで行きました。
今から67年前の1945年(昭和20年)8月6日、この場所から南東160メートルの地点の600メートル上空で、米軍のB29爆撃機から投下された原子爆弾がさく裂し、広島のまちは一瞬にして破壊され、多くの尊い命が無差別に奪われました。同年末で約14万人(±1万人)が亡くなったと推計されています。その後も永年にわたり放射能(線)による後障害によって人々を苦しめ続けています。
最近の調査でも、放射能を含んだ黒い雨が降った地域が、従来言われていた範囲よりも広いことがわかり、広島市では未指定地域を「第1種健康診断特例区域」に指定するよう国に要望しているとのことです。
銘板には、当時の写真を添えて、次のように書かれていました。「~建物は大破・全焼、館内にいた全員が即死しました。しかし爆風が上方からほとんど垂直に働いたため、建物の壁の一部は倒壊を免れ、最上部に残った鉄骨により円蓋を持つ建物であったことがわかる程度の残骸となりました。戦後、広島県産業奨励館の残骸は、最上部の円蓋鉄骨の形から、いつしか市民から原爆ドームと呼ばれるようになりました。」
原爆ドーム(旧広島県産業奨励館、写真左側)周辺の被爆前後の状況 (国立
広島原爆死没者追悼平和祈念館 開館10周年記念特別企画展チラシより)
改めて目の前の原爆ドームにカメラを向けると、ファインダーの中に鳩のつがい(?)が現れ街灯にとまりました。シャッターを押そうとする瞬間のことで、平和への思いを象徴しているかのようなできごとでした。
しばらくしてから、別の橋(元安橋)を通って、平和記念公園の方に戻りました。
今回は、今まで訪れたことのない「国立広島原爆死没者追悼平和祈念館」に行ってみることにしました。原爆死没者慰霊碑の東側で元安川の畔にあります。
原爆死没者の尊い犠牲を銘記し追悼の意を表すとともに、永遠の平和を祈念するために2002年(平成14年)8月に開館しました。
入口の地上部には、銘文と原子爆弾投下時刻の「8時15分」を表すモニュメントがありました。
館内に入り、地下1階から2階にかけては、「追悼スロープ」と言って、らせん状のゆるやかなスロープになっていて、原爆投下までの経緯や被害の概要について説明していました。
地下2階は、「平和祈念・死没者追悼空間」と言って、照明をぐっと落とした静寂な空間でした。「原爆死没者を静かに追悼し平和について考える場所」とされ、壁面には、爆心地である「島病院」付近から見た被爆後の街並みをパノラマで表現していましたが、昭和20年末までの死没者数(約14万人)と同数のタイルを用いているとのことでした。
入ったときは私一人でした。 柱部分に設置された木製の椅子に座って、しばし瞑想しました。
館内は、そのほかに、情報展示コーナーや遺影コーナー、体験記閲覧室などがありました。
また、館の仕事としては原爆死没者の名前と遺影を収集しているとのことです。
この館は、被爆者援護法に基づき、長崎市にも設置していて、原爆死没者の追悼、恒久平和の祈念、被爆関連資料・情報の収集、提供、国際協力及び交流を行う機能を備えています。
最後に、広島平和記念資料館に行きました。午後6時の入館受付閉鎖間近(8月のみ閉館は午後7時)になっていたため、観覧したことのある常設展示はパスして、企画展の「基町 姿を変える広島開基の地」を観覧しました。
軍都広島を象徴するまち基町(もとまち)は「原爆ドーム」の北東に位置する軍関連施設の集中地域でしたが、爆心地に近かったために壊滅的な被害を受けました。被爆後、市の中心に現れた広大な土地は、家を失った人々の住宅地として、また、公園、図書館、市民球場など、人々が集う場所として、広島の復興に大きな役割を果たしました。現在、基町の東側は、官庁街へと変貌し、西側は、住宅地とともに中央公園や文化・スポーツ施設が集中立地し、日々多くの人々でにぎわっています。基町の再開発の完成により広島が本当の意味で戦後の復興を遂げたということを示していると解説していました。
そして「私たちは、復興の陰で、原爆ですべてを失いながらも懸命に生きてきた人々の労苦があったということを決して忘れてはいけません」と結んでいました。
3時間のヒロシマ非核平和の旅は、新たな発見と深い思索の機会を与えてくれました。
研究・学会::2012年
| 08:34 PM |
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石平 春彦
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